日本ロック界のカリスマ、矢沢永吉 1949年の今日が誕生日です。
矢沢本人は、もともと家庭的には恵まれた環境ではなかった。実母が家を出て実父は原爆後遺症で早世した為、幼少期は親戚をたらい回しにされ、その後は祖母に育てられ極貧の少年時代を過ごした。
中学時代ラジオから流れるビートルズを聞いてロックに目覚める。広島国際学院高校から広島市立工業高校定時制に転入。1968年、高校卒業と同時に広島から、トランクとギターとアルバイトで貯めた5万円を握り締めて最終の夜行で上京。が横浜で途中下車。チャイナタウンなどで働きながらバンド活動を始める。横浜、横須賀、川崎などのライブハウスやキャバレー、兵隊の集まるゴーゴークラブで歌う。
自作のテープをレコード会社(東芝EMI)に持ち込んだが、「これは売れない」と社員に酷評される。 その時披露した曲が、「アイラブ・ユーOK」であった。
なぜ東芝EMIを選んだのか?― 矢沢「ビートルズのレコード出してるから」
「ザ・ベース」「イーセット」「ヤマト」といったいくつかのバンドを経て、矢沢が張り紙チラシで募集をかけ1972年ジョニー大倉・内海利勝・ユウ岡崎らと伝説のロックバンドキャロルを結成。ボーカルおよびベースギターを担当。
フォーク全盛の時代の日本では、ロカビリーは存在していたが、今日的なロック形態は存在しなかった。 キャロルのデビューにおいては、内田裕也のレーベルか、ミッキー・カーチスのレーベルかでメンバーは迷った。*ほぼ同時期に両方から誘いを受けたからだ。結局キャロルは内田に丁寧に侘びをいれ、ミッキーを選んだ。しかし、この時、金銭的にキャロル側に著しく不利な契約を長期で結んでしまい、後にキャロルはミッキーとも袂を分かつ。
ミッキー・カーチスのプロデュースにより日本フォノグラム (フィリップスレーベル、現在のユニバーサルミュージック) からシングル『ルイジアンナ』でデビュー(フジテレビ「リブヤング」)。革ジャンにリーゼント、ロックン・ロールというスタイルでいわゆる芸能界以外から登場し、当時のフォークソング一辺倒だった音楽シーンに衝撃を与えた。このキャロル出現のインパクトは絶大で、以降の国内ロックアーティストの多くがリスペクトし、与えた影響は計り知れない。
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